真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
達人は人の内面を見抜く眼力を持つ。嘘への反応で人の本性はわかるが、その眼力で仏法を語るべきではない。

🌙現代語対訳
達人が人を見抜く眼力は、少しも間違うことがないはずです。
達人の人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
たとえば、ある人が、世間で嘘を作り上げて、
たとへば、ある人の、世に虚言をかまへ出だして、
人をだまそうとしていたとして、素直に真実だと思い込み、
人を謀ることあらんに、素直にまことと思ひて、
言われるとおりに、だまされる人がいます。
言ふままに謀らるる人あり。
信じ込みすぎるあまり、
あまりに深く信をおこして、
さらに面倒なことに、嘘に尾ひれをつけてしまう人もいます。
なほわづらはしく、虚言を心得添ふる人あり。
また、何とも思わず、気にも留めない人もいます。
また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。
また、少し怪しいと思い、
また、いささかおぼつかなく思えて、
信じるでもなく、信じないでもなく、考え込んでいる人もいます。
頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。
また、本当だとは思えないけれども、
また、まことしくは思えねども、
「人がそう言うのだから、そうなのだろう」として、
「人の言ふことなれば、さもあらん」とて、
それ以上追及しない人もいます。
やみぬる人もあり。
また、色々と推測し、分かったふりをして、
また、さまざまに推し、心得たるよしして、
賢そうに頷いたり、微笑んだりしているが、
かしこげにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、
まったく分かっていない人もいます。
つやつや知らぬ人あり。
また、推測して、
また、推し出だして、
「なるほど、そういうことらしい」と思いながらも、
「あはれ、さるめり」と思ひながら、
「やはり間違いかもしれない」と疑っている人もいます。
「なほ誤りもこそあれ」と怪しむ人あり。
また、「思った通りだった」と、
また、「異なるやうもなかりけり」と、
手を叩いて笑う人もいます。
手を打ちて笑ふ人あり。
また、真相を理解しているが、「知っている」とは言わず、
また、心得たれども、「知れり」とも言はず、
はっきり分かっているので、特に何事もなく、
おぼつかなからぬは、とかくのことなく、
知らない人と同じようにやり過ごす人もいます。
知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。
また、この嘘の本当の意図を初めから理解していて、
また、この虚言の本意を始より心得て、
まったく動じず、嘘を仕掛けた本人と同じ心になって、
少しもあざむかず、かまへ出だしたる人と同じ心になりて、
協力する人もいます。
力を合はする人あり。
愚かな者たちの間のたわいもない嘘でさえ、
愚者の中の戯れだに、
物事を分かっている人の前では、これら様々な人々の内心は、
知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、
言葉や表情に隠しようもなく現れて、見抜かれてしまうものです。
言葉にても顔にても、隠れなく知られぬべし。
ましてや、悟りを開いたような人が、迷いの中にいる私たちをご覧になる様子は、
まして、明らかならん人の、惑へるわれらを見んこと、
手のひらの上の物を見るようなものでしょう。
掌の上の物を見んがごとし。
ただし、このような推察をもって、
ただし、かやうの推し量りにて、
仏法の真理までを同じように語るべきではありません。
仏法までをなずらへ言ふべきにはあら。
📚古文全文
達人の人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
たとへば、ある人の、世に虚言をかまへ出だして、人を謀ることあらんに、素直にまことと思ひて、言ふままに謀らるる人あり。あまりに深く信をおこして、なほわづらはしく、虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく思えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、まことしくは思えねども、「人の言ふことなれば、さもあらん」とて、やみぬる人もあり。また、さまざまに推し、心得たるよしして、かしこげにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出だして、「あはれ、さるめり」と思ひながら、「なほ誤りもこそあれ」と怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、「知れり」とも言はず、おぼつかなからぬは、とかくのことなく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を始より心得て、少しもあざむかず、かまへ出だしたる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、言葉にても顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へるわれらを見んこと、掌の上の物を見んがごとし。
ただし、かやうの推し量りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあら。