真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
障害の多い恋こそ趣深く、親の認めた恋や見合いは味気ない。不釣り合いな恋は不幸なので、風流を解さぬ相手なら恋はしない方が良い。

🌙現代語対訳
人目を忍ぶ「信夫の浦」で、海松布(みるめ)という海藻を採る海人のように、人の見る目が多くて、自由に会えず、
しのぶの浦の蜑の見るめも所せく、
暗い「くらぶの山」も見守る人が多いのに、
くらぶの山も守る人しげからんに、
無理にでも通おうとする恋心こそ、浅いものではなく、
わりなく通はん心の色こそ、浅からず、
心に染みる忘れがたい、思い出も多くなることでしょう。
あはれと思ふふしぶしの、忘れがたきことも多からめ。
親や兄弟が認めて、何の波乱もなく迎え入れるような恋は、
親はらから許して、ひたぶるに迎へ据ゑたらん、
まぶしすぎてきまりが悪いしょう。
いとまばゆかりぬべし。
世の中で落ちぶれてしまった女性が、
世にありわぶる女の、
不似合いな年老いた法師や、無骨な田舎者であっても、
似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、
暮らしが豊かだからといって、「誘ってくれるなら…」などと言うのを、
にぎははしきにつきて、「さそふ水あらば」など言ふを、
仲人が、両方にとって魅力的に聞こえるように取り持って、
仲人、いづかたも心にくきさまに言ひなして、
お互い知らない人を、迎えて来てしまうのは味気ないことです。
知られず知らぬ人を、迎へもて来たらんあいなさよ。
どんな言葉を交わすというのでしょうか。
何ごとをかうち出づる言の葉にせん。
過ごした年月のつらさや、筑波山の歌のように乗り越えてきた思い出を語り合えることこそ、
年月のつらさをも、「分け来し葉山の」などもあひ語らはんこそ、
尽きることのない会話の種になるというのに。
尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
だいたい、他人が取り持った縁談は、
すべて余所の人の取りまかなひたらん、
なんとも、気に入らないことが多いものです。
うたて、心づきなきこと多かるべし。
素晴らしい女性であっても、
よき女ならんにつけても、
身分が低く、見栄えもせず、年取っている男は、
品下り、見にくく、年も長けなん男は、
「あんなつまらない男のために、惜しい女を無駄に
「かくあやしき身のために、あたら身をいたづらに
しなくてもいいのに」と、彼女も軽蔑され、
なさんやは」と、人も心劣せられ、
本人は夫と向かい合っていても、自分の姿を恥ずかしく思うことでしょう。
わが身は向ひ居たらんも、影恥づかしく思えなん。
本当につまらないことです。
いとこそあいなからめ。
梅の花が香るおぼろ月夜に佇むことや、
梅の花かうばしき夜の朧月にたたずみ、
生垣の草原の露をかき分けて出ていくような夜明けの空が、
御垣が原の露分け出でん在明の空も、
自分にふさわしいと感じられないような人は、
わが身さまにしのばるべくもなからん人は、
初めから色恋沙汰などしないほうがいいです。
ただ色好まざらんにはしかじ。

📚古文全文
しのぶの浦の蜑の見るめも所せく、くらぶの山も守る人しげからんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふふしぶしの、忘れがたきことも多からめ。親はらから許して、ひたぶるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、にぎははしきにつきて、「さそふ水あらば」など言ふを、仲人、いづかたも心にくきさまに言ひなして、知られず知らぬ人を、迎へもて来たらんあいなさよ。何ごとをかうち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分け来し葉山の」などもあひ語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
すべて余所の人の取りまかなひたらん、うたて、心づきなきこと多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくく、年も長けなん男は、「かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやは」と、人も心劣せられ、わが身は向ひ居たらんも、影恥づかしく思えなん。いとこそあいなからめ。
梅の花かうばしき夜の朧月にたたずみ、御垣が原の露分け出でん在明の 空も、わが身さまにしのばるべくもなからん人は、ただ色好まざらんにはしかじ。