真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
料理人の気の利いた振る舞いを例に、演出よりもありのままの自然な言動の方が優れていると説く。

🌙現代語対訳
園(その)の別当入道(べっとうにゅうどう)は、比類のない料理の達人でした。
園の別当入道は、さうなき庖丁者なり。
ある人の家で、見事な鯉がふるまわれた時、
ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、
皆は「別当入道の包丁さばきを見たいものだ」と思いましたが、
みな人、「別当入道の庖丁を見ばや」と思へども、
「軽々しくお願いするのも失礼だろう」と、ためらっていました。
「たやすくうち出でんもいかが」とためらひけるを、
気の利く別当入道は、
別当入道さる人にて、
「このあいだから、百日間鯉を切るということにしていて、
「このほど、百日の鯉を切り侍るを、
今日やめるわけにはまいりません。ぜひとも切らせていただきたい」
今日欠き侍るべきにあらず。まげて申し請けん」
と言って、お切りになった。
とて、切られける。
「見事で、場にふさわしく、趣のあることだと、
「いみじく、つきづきしく、興ありて、
人々は思ったそうです」と、
人ども思へりける」と、
ある人が北山太政入道殿に語り申し上げたところ、
ある人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、
「そういうことは、私はどうにも煩わしく思うのだ。
「かやうのこと、おのれはよにうるさく思ゆるなり。
『切る人がいないのなら、私が切ろう』と言ったほうが、
『切りぬべき人なくば給べ。切らん』と言ひたらんは、
よほど良いではないか。何のために、百日も鯉を切るのか」と
なほよかりなん。なでふ、百日の鯉を切らんぞ」と
おっしゃったのを、「面白い」と思った、と話してくれた人の様子が、
のたまひたりし、をかしく思えしと、人の語り給ひける、
面白いものでした。
いとをかし。

だいたいにおいて、趣向を凝らして面白くするよりも、
おほかた、振舞ひて興あるよりも、
面白くなくても、ありのままであるほうが、優れているものです。
興なくてやすらかなるが、まさりたることなり。
お客様をもてなす場合なども、何かのきっかけで何かをするのも、確かに良いことですが、
客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、
ただ、何の前触もなくさっと出すほうが、ずっと良いのです。
ただそのこととなくて取り出でたる、いとよし。
人に物を贈る時も、何かのついでではなく、
人に物を取らせたるも、ついでなくて、
「これを差し上げます」と言うのが、本当の真心です。
「これを奉らん」と言ひたる、まことの志なり。
惜しんでいるふりをして相手に請われるのを待ったり、
惜しむよしして請はれんと思ひ、
賭け事の負けを口実にしたりするのは、感心しません。
勝負の負けわざにことつけなどしたる、むつかし。
📚古文全文
園の別当入道は、さうなき庖丁者なり。
ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、みな人、「別当入道の庖丁を見ばや」と思へども、「たやすくうち出でんもいかが」とためらひけるを、別当入道さる人にて、「このほど、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。まげて申し請けん」とて、切られける。
「いみじく、つきづきしく、興ありて、人ども思へりける」と、ある人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうのこと、おのれはよにうるさく思ゆるなり。『切りぬべき人なくば給べ。切らん」と言ひたらんは、なほよかりなん。なでふ、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく思えしと、人の語り給ひける、いとをかし。
おほかた、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、まさりたることなり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただそのこととなくて取り出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と言ひたる、まことの志なり。惜しむよしして請はれんと思ひ、勝負の負けわざにことつけなどしたる、むつかし。