真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
「都人は不実」との批判に尭蓮上人が反論し、情の深さゆえだと説く。見かけで人を判断していた非を筆者が悟る話。

🌙現代語対訳
悲田院(※救貧施設)の尭蓮上人は、出家前の名前は三浦何某とかで、
悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、
並ぶ者のない武者でした。
双なき武者なり。
上人の故郷から人がきて、世間話をする中で、
故郷の人の来たりて、物語すとて、
「関東人は、言ったことは頼りになります。
「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ。
都の人は、口先だけはいいが、誠実さがない」と言ったのを、
都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、
上人は、「そうお思いでしょうが、
聖、「それはさこそ思すらめども、
私は都に長く住んで、よく見ております。
おのれは都に久しく住みて、なれて見侍るに、
都の人の心が劣っているとは思いません。
人の心劣れりとは思ひ侍らず。
総じて、心が優しく、情け深いので、
なべて、心柔らかに、情あるゆゑに、
人から頼まれると、きっぱりと断ることができず、
人の言ふほどののこと、けやけく否びがたくて、
万事、言い切ることができず。気が弱くて引き受けてしまうのです。
よろづえ言ひ放たず。心弱くことうけしつ。
『嘘をつこう』と思うわけではないが、それだけの力がなくて約束を果たせない人が多いので、
『偽りせん』とは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、
自然と約束通りにいかないことが多くなるのでしょう。
おのづから本意通らぬこと多かるべし。
関東の人間は、私の同郷ですが、実のところ、心の機微というものがなく、
吾妻人は、わがかたなれど、げには、心の色なく、
情に乏しく、ただ実直なだけなので、
情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、
最初から『できない』と言って終わりです。
始めより『否』と言ひてやみぬ。
(関東では)暮らし向きが豊かだから、人から頼りにされるのです」と、
にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし」と、
筋道を立てて説明なさいました。
ことはられ侍りしこそ。
この上人は、声がしゃがれていて、荒々しかったので、
この聖、声うちゆがみ、荒々しくて、
「仏教の細かな道理など、あまり理解していないのではないか」
「聖教の細やかなることわり、いとわきまへずもや」
と思っていましたが、この一言を聞いてから、立派な方だと感じるようになり、
と思ひしに、この一言の後、心にくくなりて、
多くの僧の中から選ばれて、寺の住職を務めておられるのも、
多かるなかに、寺をも住持せらるるは、
「このように柔らかな面もあって、その徳があるからだろう」と思えました。
「かく柔らぎたる所ありて、その益もあるにこそ」と思え侍りし。
📚古文全文
悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。
故郷の人の来たりて、物語すとて、「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、なれて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔らかに、情あるゆゑに、人の言ふほどののこと、けやけく否びがたくて、よろづえ言ひ放たず。心弱くことうけしつ。『偽りせん』とは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、わがかたなれど、げには、心の色なく、情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、始めより『否』と言ひてやみぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし」と、ことはられ侍りしこそ。
この聖、声うちゆがみ、荒々しくて、「聖教の細やかなることわり、いとわきまへずもや」と思ひしに、この一言の後、心にくくなりて、多かるなかに、寺をも住持せらるるは、「かく柔らぎたる所ありて、その益もあるにこそ」と思え侍りし。