真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
美は満ちる前や欠けた後にこそある。祭の後の寂しさから世の無常を知り、常に死が身近にあることを心得るべきだと説く。

🌙現代語対訳
桜の花は満開を、月は満月だけを、見るものでしょうか。
花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。
雨に向かって月を恋しく思い、家にこもって春が過ぎるのを知らずにいるのも、
雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、
またしみじみと趣深いものです。
なほあはれに情深し。
これから咲きそうな枝先や、花が散りしおれた庭などにこそ、
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、
見るべき所は多いです。
見所おほけれ。
和歌の前書きに、「花見に行ったが、
歌の詞書にも、「花見にまかれけるに、
すでに散り去ってしまった」とか、
はやく散り過ぎにければ」とも、
「差し支えがあって、行けなかった」などと書いてあるのは、
「さることありて、まからで」なども書けるは、
「花を見て」と書いてあるものに比べて、劣っているでしょうか。
「花を見て」と言へるに、劣れることかは。
花が散り、月が沈む様子に心惹かれるのは当然のことなのに、
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、
特に無粋な人に限って、
ことにかたくななる人ぞ、
「この枝もあの枝も散ってしまった。もう見る価値はない」
「この枝、かの枝、散りにけり。今は見所なし」
などと言うようです。
などは言ふめる。
すべてのことは、その始まりと終わりこそが趣深いのです。
よろづのことも、始終こそをかしけれ。
男女の恋愛も、ただひたすら逢瀬を重ねることだけを言うのでしょうか。
男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。
逢えずに終わってしまった辛さを思い、叶わなかった愛の誓いを嘆き、
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契をかこち、
長い夜を一人で明かし、遠い空の彼方を思いやり、
長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、
草が茂って荒れた家で昔を懐かしむことこそ、恋の情趣を解すると言えるでしょう。
浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。

陰りのない満月を、千里先まで見渡して眺めるよりも、
望月のくまなきを、千里の外まで眺めたるよりも、
明け方近くなって、ようやく出てきた月が、
暁近くなりて待ち出でたるが、
とても奥ゆかしく青みがかって見え、
いと心深う青みたるやうにて、
深い山の杉の枝先にかかっている様子や、木の間から漏れる月の光、
深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、
さっと雨を降らせそうな雲に隠れたりする様は、このうえなく美しいものです。
うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。
椎や白樫などの、濡れたような葉の上に月の光がきらめいているのを見ると、
椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、
痛切に感じ、「これがわかる友がいたらなあ」と、都が恋しく思われるのです。
身にしみて、「心あらん友もがな」と、都恋しう思ゆれ。
そもそも、月や花は、ただ目だけで見るものなのでしょうか。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春には家から出かけなくても、月が出ている夜には寝室の中にいながら思うことこそ、
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨の内ながらも思へるこそ、
心豊かで趣深いことなのです。
いとたのもしうをかしけれ。

洗練された人は、なにかに夢中になっている様子を見せず、
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、
楽しむ様子もさりげないものです。
興ずるさまもなほざりなり。
田舎者に限って、大げさになんでも面白がります。
片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。
花の下では、まとわりつくようにして、まわりを見もせずに花を見つめ、
花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、
酒を飲み、連歌に興じ、ついには大きな枝を、平気で折り取ってしまいます。
酒飲み、連歌して、果ては大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手や足をじゃぶじゃぶ浸し、雪が降れば庭に下りて足跡をつけたり、
泉には手足さしひたして、雪には下り立ちて跡付けなど、
何事も、距離を置いて眺めるということがありません。
よろづの物、よそながら見ることなし。

そのような人が祭を見物する様子は、実に奇妙なものでした。
さやうの人の祭見しさま、いと珍かなりき。
「見どころは、まだ先だ。それまでは桟敷席はいらない」と言って、
「見ごと、いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、
奥まった家で、酒を飲み、食事をし、囲碁や双六などをして遊んでいます。
奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、
桟敷席に連絡係を置いておいて、「来ます」という声がかかると、
桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、
各々、あわてふためいて我先にと駆け上り、
おのおの肝つぶるるやうに争ひ走り上りて、
落ちそうになるまで簾を張り出して、押し合いながら、
落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、
「ひとつも見逃すまい」と見守り、
「一事も見漏さじ」とまぼりて、
「ああだ、こうだ」とひとつひとつに解説を加えます。
「とあり、かかり」と物ごとに言ひて、
通り過ぎてしまうと、「また次が来るまで」と言って下に降ります。
渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。
ただ、物を見ようとすることだけなのでしょう。
ただ、物をのみ見んとするなるべし。
都の恐れ多い身分の方々は、居眠りしていて大して見ていません。
都の人のゆゆしげなるは、睡りていとも見ず。
若い末端の地位にある人達は、宮仕えにふさわしく振る舞い、
若く末々なるは、宮仕へに立ち居、
貴人の後ろに控えているので、みっともなく前に出ていって、
人の後ろにさぶらふは、さま悪しくも及びかからず、
無理に見ようとする人もいません。
わりなく見んとする人もなし。
さりげなく葵の葉が飾られていて、その様子が何とも言えず優雅であるところに、
何となく葵かけわたしてなまめかしきに、
夜が明けきらないうちに、そっとやってくる車に心惹かれるので、
明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、
その人だろうか、あの人だろうか、などと想像をめぐらすと、
それか、かれか、など思ひ寄すれば、
牛飼いや下男に見覚えがあることもあります。
牛飼・下部などの見知れるもあり。
趣のあるもの、華やかなもの、様々な車や人々が行き交います。
をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交。
日が暮れる頃には、立ち並んでいた車も、大勢いた人々も、
暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並み居つる人も、
どこへ行ってしまったのか、いつの間にかまばらになり、
いづ方へか行きつらん、ほどなくまれになりて、
車の騒がしさもなくなります。
車どものらうがはしさもすみぬれば、
簾や畳も取り払われ、目の前の景色が急に寂しくなっていく様子にこそ、
簾・畳も取り払ひ、目の前に寂しげになりゆくこそ、
この世のありさまが思い知されて、しみじみとした気持ちです。
世の例も思ひ知られてあはれなれ。
大通りを見届けることこそが、祭を見たということなのです。
大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。

あの観覧席の前を、あれほど行き交う人の中に、
かの桟敷の前を、ここら行き交ふ人の、
知り合いが大勢いることから分かります。
見知れるがあまたあるにて知りぬ。
世の中の人口も、実はそれほど多いわけではないのです。
世の人数も、さのみは多からぬにこそ。
この人達が、皆いなくなった後に、自分の死ぬ番が来ると決まっているとしても、
この人、みな失せなん後、わが身死ぬべきに定まりたりとも、
それほど長く待つことはないでしょう。
ほどなく待ちつけぬべし。
大きな器に水を入れ、小さな穴を開けたとします。
大きなる器に水を入れて、細き穴を開けたらんに、
したたり落ちる水はわずかでも、
しただること少なしといふとも、
休みなく漏れていけば、やがて尽きてしまいます。
おこたる間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。

都の中に大勢の人が、死なない日はないでしょう。
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。
一日に一人や二人どころではないはずです。
一日に一人・二人のみならんや。
鳥部野や舟岡、その他の野山にも、
鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、
葬送が多い日はあっても、まったくない日はありません。
送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。
だから、棺を売る者は、作り置きしておく暇もないのです。
されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。
若いから、体が強いからといって関係なく、死期は思いがけないものです。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひがけぬは死期なり。
今日まで生き延びてきたのは、得難い、不思議なことです。
今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
📚古文全文
花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見所おほけれ。歌の詞書にも、「 花見にまかれけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さることありて、まからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに、劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝、散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
よろづのことも、始終こそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契をかこち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
望月のくまなきを、千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、「心あらん友もがな」と、都恋しう思ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨の内ながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪には下り立ちて跡付けなど、よろづの物、よそながら見ることなし。
さやうの人の祭見しさま、いと珍かなりき。「見ごと、いと遅し。そのほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふ」と言ふ時に、おのおの肝つぶるるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、「一事も見漏さじ」とまぼりて、「とあり、かかり」と物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで」と言ひて下りぬ。ただ、物をのみ見んとするなるべし。
都の人のゆゆしげなるは、睡りていとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後ろにさぶらふは、さま悪しくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれか、など思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ。見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並み居つる人も、いづ方へか行きつらん、ほどなくまれになりて、車どものらうがはしさもすみぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前に寂しげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られてあはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
かの桟敷の前を、ここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ。世の人数も、さのみは多からぬにこそ。この人、みな失せなん後、わが身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を開けたらんに、しただること少なしといふとも、おこたる間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひがけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。