真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
想像した顔は実物と違い、昔の物語も現代に当てはめてしまう。また既視感(デジャヴ)を覚えることがある。こうした感覚は、果たして自分だけのものなのだろうか。
🌙現代語対訳
名前を聞くと、自然と顔つきまで想像してしまうものですが、
名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、
実際に会ってみると、想像していた通りの顔の人というのは、まずいません。
見る時は、またかねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。
昔の物語を聞いても、
昔物語を聞きても、
「今の時代の誰それさんの家のような感じだったのだろう」と思えて、
「このごろの人の家の、そこほどにてぞありけん」と思えて、
登場人物も、周りにいる誰かに重ね合わせて考えてしまいます。
人も今見る人の中に思ひよそへらるるは、
誰もがこのように感じるものなのでしょうか。
誰もかく思ゆるにや。
もう一つ、何かの折に、
また、いかなる折ぞ、
たった今、人が話していることや、目に見えている光景、さらには自分自身の心の中まで、
ただ今、人の言ふことも、目に見ゆるものも、わが心の内も、
「これと全く同じことが、いつか、どこかであったはずだ」と感じられ、
「かかることのいつぞやありしか」と思えて、
いつのことだったかは、思い出せないのですが、
いつとは思ひ出でねども、
確かに経験したという感覚があるのです。
まさしくありし心地のするは、
このようなことを感じるのは、私だけでしょうか。
わればかりかく思ふにや。
📚古文全文
名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、見る時は、またかねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、「このごろの人の家の、そこほどにてぞありけん」と思えて、人も今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく思ゆるにや。
また、いかなる折ぞ、ただ今、人の言ふことも、目に見ゆるものも、わが心の内も、「かかることのいつぞやありしか」と思えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、わればかりかく思ふにや。