真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
ポイント
本当に仏道を修めるなら、俗世を離れ静かな環境に身を置くべきだ。人として生まれた以上、欲望のままに生きず悟りを求めることが望ましいということで、ヒッピーみたいです。

🌙現代語対訳
「本当に仏道を求める心があるなら、住む場所は関係ない。
「道心あらば、住む所にしもよらじ。
家にいて、人付き合いをしながらでも、
家にあり、人に交はるとも、
来世での往生を願うことは、別に難しくないはずだ」
後世を願はんに、かたかるべきかは」
と言うのは、来世のことを分かっていない人です。
と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。
実際のところ、この世の儚さを痛感し、
げには、この世をはかなみ、
「必ず生死の輪廻から解脱するのだ」と決意した人が、
「必ず生死を出でん」と思はんに、
いったい何の楽しみがあって、朝から晩まで主君に仕えたり、
何の興ありてか、朝夕君に仕へ、
家のことに精を出したりするでしょうか。
家をかへりみる営みのいさましからん。
心は環境に影響されて移ろいやすいものですから、
心は縁に引かれて移るものなれば、
静かな場所でなければ、仏道の修行は難しいのです。
閑かならでは、道は行じがたし。
現代人の器の大きさは、昔の人には及びません。
そのうつはもの、昔の人に及ばず。
山林に籠もっても、飢えをしのぎ、
山林に入りても、餓ゑを助け、
嵐を防ぐ手立てがなければ、生きてはいけないので、
嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、
自然と、世俗の利益を貪るようなことも、
おのづから世を貪るに似たることも、
場合によっては、しなければならない。
たよりにふればなどかなからん。
だからといって、「世を捨てた甲斐がないじゃないか。それくらいなら、
さればとて、「そむけるかひなし。さばかりならば、
なぜ出家したのだ」などと言うのは、的外れです。
なじかはすてし」など言はんは、無下のことなり。
さすがに、一度仏門に入り、世俗を離れようとする人は、
さすがに、一度道に入りて、世を厭はん人、
たとえ世俗的な望みがあったとしても、
たとひ望みありとも、
権勢を誇る俗人の貪欲さとは比べものになりません。
いきほひある人の貪欲多きに似るべからず。
紙の寝具、麻の衣、一杯の食物、アカザの葉の汁といった質素な暮らしが、
紙の衾・麻の衣・一鉢のまうけ・藜の羹、
どれほどの出費が必要でしょうか。
いくばくか人の費をなさん。
求めるものは少なく、その心はすぐに満たされるはずです。
求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。
形の上では恥ずべきことがあるにせよ、
形に恥づる所もあれば、さはいへど、
悪からは遠ざかり、善に近づくことの方がずっと多いのです。
悪にはうとく、善には近付くことのみぞ多き。
人間として生まれたからには、
人と生れたらんしるしには、
どうにかして俗世から離れることこそが、本当に望ましいのです。
いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。
ひたすら欲望のままに生き、悟りを求めないのは、
ひとへに貪ることをつとめて、菩提におもむかざらんは、
多くの獣たちと、変わるところがないではありませんか。
よろづの畜類に変はるところあるまじくや。
📚古文全文
「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに、かたかるべきかは」と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。
げには、この世をはかなみ、「必ず生死を出でん」と思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家をかへりみる営みのいさましからん。心は縁に引かれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じがたし。
そのうつはもの、昔の人に及ばず。山林に入りても、餓ゑを助け、嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たることも、たよりにふればなどかなからん。
さればとて、「そむけるかひなし。さばかりならば、なじかはすてし」など言はんは、無下のことなり。さすがに、一度道に入りて、世を厭はん人、たとひ望みありとも、いきほひある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾・麻の衣・一鉢のまうけ・藜の羹、いくばくか人の費をなさん。求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。形に恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善には近付くことのみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。ひとへに貪ることをつとめて、菩提におもむかざらんは、よろづの畜類に変はるところあるまじくや。