真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
ポイント
賀茂の競馬で、木の枝で眠る法師を笑う人に、死を忘れた我々こそ愚かだと諭し、席を譲られたという逸話。

🌙現代語対訳
五月五日に、賀茂の競馬を見物しましたところ、
五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、
牛車の前に大勢の人が立ちふさがって、見えなかったので、
車の前に雑人立ち隔てて、見えざりしかば、
皆で牛車から降りて、柵のきわに寄ったのですが、
おのおの降りて、埒の際に寄りたれど、
とりわけ人が多く混み合っていて、
ことに人多く立ち込みて、
分け入ることができそうもありませんでした。
分け入りぬべきやうもなし。
そんな時、向かいにあるセンダンの木に、
かかる折に、向かひなる楝の木に、
法師が登り、木の二股の所に座って、見物している者がいました。
法師の登りて、木の股についゐて、物見るあり。
枝に取り付いたまま、ひどく居眠りをして、
取り付きながら、いたう睡りて、
落ちそうになる時に目を覚ます、ということを何度もしていました。
落ちぬべき時に目を覚ますこと、たびたびなり。
これを見ていた人々は、あざけり見下して、
これを見る人、嘲りあさみて、
「とんでもない愚か者だな。あんなに危ない枝の上で、
「世の痴れ者かな。かく危ふき枝の上にて、
のんきに居眠りができるものだ」と言うので、
安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、
私の心にふと思ったことをそのまま、
わが心にふと思ひしままに、
「私たちに死が訪れるのは、今この瞬間かもしれない。
「われらが生死の到来、ただ今にもやあらん。
それを忘れて、見物に夢中になって1日過ごす愚かさは、
それを忘れて、物見て日を暮らす、愚かなることは、
なおのこと(あの法師より)まさっているものを」と言ったところ、
なほまさりたるものを」と言ひたれば、
前にいた人々が、「まことに、おっしゃる通りでございます。
前なる人ども、「まことに、さにこそ候ひけれ。
よほど愚かでございました」と言って、
もつとも愚かに候ふ」と言ひて、
みな、後ろを振り返り、「こちらへお入りください」と、
みな、後ろを見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、
場所を空けて、私たちを招き入れてくれたのです。
所を去りて、呼び入れ侍りにき。
この程度の道理は、誰でも分かることですが、
かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、
その時の状況では、思いがけない気持ちがして、胸に響いたのでしょう。
折からの思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや、
人は木や石ではないので、
人、木石にあらねば、
時には、物事に感動することがないわけではないのです。
時にとりて、ものに感ずることなきにあらず。
📚古文全文
五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて、見えざりしかば、おのおの降りて、埒の際に寄りたれど、ことに人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向かひなる楝の木に、法師の登りて、木の股についゐて、物見るあり。取り付きながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を覚ますこと、たびたびなり。
これを見る人、嘲りあさみて、「世の痴れ者かな。かく危ふき枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、わが心にふと思ひしままに、「われらが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす、愚かなることは、なほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことに、さにこそ候ひけれ。もつとも愚かに候ふ」と言ひて、みな、後ろを見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや、人、木石にあらねば、時にとりて、ものに感ずることなきにあらず。