真の古典の魅力は、作者が紡いだ原文の中にこそ息づいています。「古文で読みたい徒然草シリーズ」で、現代語と古文を併読することで、古の言葉が今なお放つ光を確かめてください。
💭ポイント
季節の移ろいは趣深い。春の心浮き立つ気配、夏の生命力、風情あふれる秋、静寂な冬、そして年末年始の慌ただしさと改まった気持ちまで、それぞれの季節の魅力を、古典を引き合いに出しつつ語ります。


🌙現代語対訳
季節が移り変わっていく様子というのは、何事につけても趣深いものです。
折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。
「ものの趣は秋が一番」と誰もが言うようですが、
「もののあはれは、秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、
それもそうですが、今、とりわけ心が浮き立つのは、春の景色ではないでしょうか。
それもさるものにて、今、ひときは心も浮き立つものは、春の気色にこそあめれ。
鳥の声も格別に春らしくなり、
鳥の声なども、ことのほかに春めきて、
のどかな日差しに、垣根の草が芽吹く頃から、
のどやかなる日影に、垣根の草もえ出づるころより、
だんだんと春は深まり、霞がたなびきます。
やや春深く、霞み渡りて、
桜の花もいよいよ咲きそうな気配を見せますが、
花もやうやう気色だつほどこそあれ、
ちょうどその見頃に、雨や風が続いて、慌ただしく散ってしまいます。
折しも、雨風うち続きて、心あはたたしく散り過ぎぬ。
すっかり青葉になるまで、桜は何かと人の心を悩ませるものですね。
青葉になりゆくまで、よろづに、ただ心をのみぞ悩ます。
橘の花はその香りで有名ですが、やはり梅の香りの方が、
花橘は名にこそ負へれ。なほ、梅の匂ひにぞ、
昔のことがしきりに恋しく思い出されます。
いにしへのことも立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。
山吹の清らかな様子や、藤の花がどこか儚(はかな)げに咲いている姿など、
山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、
どれも心惹かれるものばかりです。
すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
「お釈迦様の誕生を祝う頃や、賀茂神社の祭りの頃、若葉が
「灌仏のころ、祭のころ、若葉の梢、
涼しげに茂っていく様子こそ、世の趣も
凉しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、
人恋しさも深まる」と、
人の恋しさもまされ」と、
ある方がおっしゃったのは、本当にその通りです。
人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。
五月、軒先に菖蒲を飾る頃、田植えをする頃、
五月、菖蒲ふくころ、早苗とるころ、
水鶏が戸を叩くような声で鳴くのなど、しみじみとした気持ちにならないでしょうか。
水鶏の叩くなど、心細からぬかは。
六月頃、質素な家に夕顔の花が白く咲き、
六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、
蚊除けがくすぶっているのも趣があります。六月の夏越の祓も、また格別です。
蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓、またをかし。
七夕のお祭りは優雅で良いものです。
七夕祭るこそ、なまめかしけれ。
だんだんと夜が涼しくなり、雁が鳴きながら渡ってきて、
やうやう夜寒になるほど、雁鳴きて来るころ、
萩の下の葉が色づき、早世種の稲を刈って干すなど、
萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、
趣深いものを集めると、秋が一番多いかもしれません。
取り集めたることは、秋のみぞ多かる。
台風が過ぎ去った翌朝も、また格別に美しいものです。
また、野分の朝こそ、をかしけれ。
書き連ねると、どれも
言ひ続くれば、みな
同じことだからと今さら言うまいとは思いません。
同じこと、また今さらに言はじとにもあらず。
思ったことを言わないのは気持ちが悪いものですから、
おぼしきこと言はぬは、腹ふくるるわざなれば、
筆に任せたままの、つまらない気晴らしで、
筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、
破り捨てるべきものなので、人様に見せるものではありません。
かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて、冬枯れの景色も、
さて、冬枯れの気色こそ、
秋の趣に決して劣るものではありません。
秋にはをさをさおとるまじけれ。
水際の草に紅葉が散りかかり、真っ白な霜が降りた朝。
汀の草に紅葉の散りとどまりて、霜いと白うおける朝。
小川から霧が立ち上っている様子は、趣深いものです。
遣水より煙の立つこそ、をかしけれ。
すっかり年の瀬になり、誰もが慌ただしく行き交う頃は、
年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへるころぞ、
また他にはない趣があります。
またなくあはれなる。
殺風景で、見る人もいない
すさまじきものにして、見る人もなき、
月が寒々と澄み渡っている二十日過ぎの夜空に様子は、
月の寒けく澄める二十日あまりの空こそ、
心細い気持ちになるものです。
心細きものなれ。
宮中の法要や伊勢神宮への勅使の出立なども、厳かで尊いものです。
御仏名・荷前の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。
年末の公務が立て込み、新年の準備と重なって
公事どもしげく、春の急ぎにとり重ねて、
執り行われる様子は、感慨深いものがあります。
催し行はるるさまぞ、いみじきや。
大晦日の鬼払いから元旦の四方拝へと儀式が続くのも面白いものです。
大晦日の夜、真っ暗な中を人々が松明を灯して、
晦日の夜、いたう暗きに、松ども灯して、
真夜中を過ぎるまで家々の門を叩いて走り回り、
夜半過ぐるまで、人の門叩き走りありきて、
何事だろうか、大声で騒いで、足元も定かでなかったのだが、夜明け頃には、不思議と静かになったことで、
何ごとにかあらん、ことことしくののしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、
過ぎゆく年への名残惜しさで、心細い気持ちにさせられます。
年の名残も心細けれ。
「大晦日は亡き人の魂が帰ってくる夜だ」としてお祀りする風習が、
「亡き人の来る夜」とて、魂祀るわざは、
最近都ではなくなったのを、東国では
このごろ都にはなきを、東の方には、
まだ行っていると聞いたのは、心打たれる話でした。
なほすることにてありしこそ、あはれなりしか。
こうして明けていく元旦の空は、昨日と変わらぬように見えても、
かくて明けゆく空の気色、昨日に変りたりとは見えねど、
すっかり改まった新鮮な気持ちがします。
ひきかへめづらしき心地ぞする。
大通りには門松がずらりと並び、
大路のさま、松立てわたして、
華やかで喜びに満ちている様子もまた、趣深いものです。
華やかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ。



📚古文全文
折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。
「もののあはれは、秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今、ひときは心も浮き立つものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声なども、ことのほかに春めきて、のどやかなる日影に、垣根の草もえ出づるころより、やや春深く、霞み渡りて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、折しも、雨風うち続きて、心あはたたしく散り過ぎぬ。青葉になりゆくまで、よろづに、ただ心をのみぞ悩ます。
花橘は名にこそ負へれ。なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへのことも立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
「灌仏のころ、祭のころ、若葉の梢、凉しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と、人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。
五月、菖蒲ふくころ、早苗とるころ、水鶏の叩くなど、心細からぬかは。
六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓、またをかし。
七夕祭るこそ、なまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きて来るころ、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、取り集めたることは、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそ、をかしけれ。
言ひ続くれば、みな『源氏物語』・『枕草子』などに、ことふりにたれど、同じこと、また今さらに言はじとにもあらず。おぼしきこと言はぬは、腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて、冬枯れの気色こそ、秋にはをさをさおとるまじけれ。汀の草に紅葉の散りとどまりて、霜いと白うおける朝。遣水より煙の立つこそ、をかしけれ。
年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして、見る人もなき、月の寒けく澄める二十日あまりの空こそ、心細きものなれ。御仏名・荷前の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事どもしげく、春の急ぎにとり重ねて、催し行はるるさまぞ、いみじきや。
追儺より、四方拝に続くこそ、面白けれ。晦日の夜、いたう暗きに、松ども灯して、夜半過ぐるまで、人の門叩き走りありきて、何ごとにかあらん、ことことしくののしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心細けれ。「亡き人の来る夜」とて、魂祀るわざは、このごろ都にはなきを、東の方には、なほすることにてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空の気色、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、華やかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ。